【ページ内目次】 ■正心三原則 ●前向き ●感謝 ●愚痴を言わない ☆余談1~3
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■正心三原則
正心とは、呼吸法を実践するに当たっての心構えですが、もちろん人生一般についても重要なことだと言えます。博士も「正心」を伝えることの重要性について、再三強調されていました。具体的に3つのことを挙げられています。
①全てを前向きに考える。
②全てのことに対して感謝の心を忘れない。
③愚痴をこぼさない。
「正心」の「正」、つまり「正しい」という意味の中には、もちろん道徳的にも法律的にも正しいということも含んではいます。ただ、博士が言われる「正しい」には、「自然の理にかなっている」という意味合いが強く出ています。
例えば、実修する際の姿勢について「上体は真っ直ぐに」という場合でも、胸を張るような真っ直ぐではなく、背骨が本来持っている湾曲は残したままでの真っ直ぐです。それが「自然の理」だからです。
また腹式呼吸の説明でも触れましたけれど、動物の肺はその身体の中のかなり大きな部分を占めています。それは必要であるから、それだけの大きさを持っているわけであり、したがってそれを最大限に活用することが「自然の理」ということになります。
以前博士ご自身の口からから聞きたいと思って、「正心とは?」と質問したことがあります。すると博士に「あなたが正しいと思うことをすればいいんだよ」と言われてしまいました。いや、たしかにそれはそうなんだろうけれども、全部をこちらに任されてしまうのもけっこうつらいよな、というのがそのときの感想でした。でも、博士が言わんとしておられたのは、「自然の理」に即して判断すれば、本来人間も間違えはしないんだよ、ということだったのかと、今にして思います。 以下、正心の3原則について、個々に説明していきます。
●すべてを前向きに考える
全てのことに対して前向きに考えるようにしていくと、前向きに考えざるを得ないようなことばかり寄ってくることになります。
どなたでも思い当たるところが有ると思いますが、全ての物事には二面性が有り、自分自身がどちらの面で捉えるかによって、心持ちが全く変わってしまうということは多々有ります。
博士はこの辺りのことについて次のように述べています。
あらゆる存在物はよくなるようにつくられています。成長はすべてのものの本質なのです。なぜなら、それが宇宙の根本の意思であるからです。したがって物事を前向きにとらえ、人生を肯定的、積極的に生きることは、その原理に無理なくそうことであり、人間にとってもっとも自然な行為です。 (「100歳だからこそ、伝えたいこと」P.72)
●全てのことに対して感謝の心を忘れない
全てのことに対して感謝の気持ちを忘れないようにしていくと、感謝せざるを得ないことばかりが身の回りで起こってくる、ということです。
これもどなたでも経験していることだと思いますが、心の底から感謝の気持ちが湧いてきたときというのは、涙まではこぼさなくてもグッとこみ上げてくるものが有ります。感謝の念が持つ浄化力には素晴らしいものがあるのではないでしょうか。
最近の講習会では、正心3原則の中でもこの「感謝」ということについて重点的に話しています。そして最も重要なものは「自分自身に対する感謝」なのではと考えています。今自分自身がこの世に生きていること、生かされていることに対する感謝。感謝の対象が神であろうと宇宙無限力であろうと、はたまた村上和雄博士の言う所のサムシング・グレートであろうと、人智を超えた大いなるものに生かされているということへの感謝。それを心に刻んでおくことは大切なことではないでしょうか。
全てのことに対する感謝とは言っても、理屈では分かるけれど「あのことに対しては」とか「あの人に対してだけは」とかいう場合は有り勝ちな話ではあります。それに対して博士はこう言われています。
いくら感謝が大切だといっても、どうしても感謝できない人もいる。そういう人は感謝するふりをするだけでもいい。こじつけでも口先だけでもよいから「ありがとう」といってみる。何度もそうしているうちに本当の感謝の念が起こってくるものだ。 (「100歳だからこそ、伝えたいこと」P.145
●愚痴をこぼさない
これは「前向き」「感謝」とは反対のことが起こってきます。つまり愚痴ばっかりこぼしていると、愚痴らざるを得ないことが寄ってきますよ、ということです。
愚痴ばかり言うということは、そこに停滞してしまうことでもあります。停滞していると、愚痴りたくなるようなものばかり集まって来るだけでなく、新しい愚痴が芽生えて、自身にとって好ましくない部分がどんどん大きくなっていったりもします。ですから、新たな愚痴を呼び込まないよう、できるだけ愚痴は言わないほうが良いということになります。
ですが、塩谷博士の中には「呼吸法や健康法を実践すること自体がストレスになってしまったのでは本末顛倒」という考え方あります。愚痴についても「言ってはいけない、言ってはいけない」と溜め込んでしまったのでは、かえって身体に悪い。溜め込んで我慢するよりは、口に出して直ぐに忘れてしまったほうが良いということになります。
この辺りも、博士の著書から引用しておきましょう。
心に不平不満があって吐き出したいときでも、ぶつぶつと愚痴をいうのではなく、大きな声で笑い飛ばすようにするのがよい。そしてその後はさっぱりと忘れてしまうことだ。 (「100歳だからこそ、伝えたいこと」P.150)
この実践のストレスについては、別に述べる実修回数についても言えます。1日25回というのが実践の目安になりますが、今日は20回しかできなかったとか、忙しくて1回もできなかったとかを思い悩む必要はありません。そんなことを気にすることより、また翌日から始めればよいことです。そのあたりのことも頭の隅に置いておいてください。
余談1
人間の心持は、やはり考え方次第だなと実感した体験を書いておきます。
正心調息法の出張講習会等に出かけるときは、着替え等々も必要になりますから荷物は大きめになります。また、仕事の関係でTIMEDOMAIN社のスピーカーの販売代理店をしているのですが、車は持っていないので約20kgあるその円筒型のスピーカーをキャリアに載せ、大きなリュックを担いで試聴会会場に移動しています。
そんな状況ですから、傘を差しにくいので雨は避けたいわけですけれど、比較的に天候には恵まれます。ただし、私が外に出るとどんな土砂降りでもサッと止む、などというカッコいいことではないのですが、不思議と傘を差さずに済むくらいの雨脚にはなってくれます。
これもある時、大したことではないのに、ふと「守られている」と感じてからそれに気付きました。一度そう思ってしまうと、天候に恵まれたことばかり記憶に残るようになりました。実際には傘を差さざるを得ないこともあるわけですが、そのときのことはほとんど覚えていないというか、思い出す時はまず初めに「恵まれた」時の記憶が先に出てくるようになっています。考え方次第で出来事の印象も随分と違ってくることは間違いないようです。
ついでながら書き留めておくと、スピーカーを家から運び出すときに雨が降っていることがよくあります。そんなとき、私が「ああ、今日も傘を差さずに駅までいけそうだな」と感謝していると、2018年に亡くなった母親は「お前は雨男だねぇ」と笑っていました。
余談2
岡山県福山市で波動測定器を使って健康相談をしている知人がいました。その方から聞いた話。
その知人も正心調息法が好きで、そのやり方を書いた紙を事務所の壁に貼っていました。ある日、おばあさんが波動相談に来たのですが、説明をろくに聞かずにその紙の「正心」のところをずっと見ている。知人はどうしたのかと思ったようですが、そのおばあさんが帰り掛けにひと言。
『今まで私はこれと正反対の生き方をしてきた。』
なんかすごいと思いませんか。きっとそのおばあさんには「正心三原則」が心の奥に届く時期に来ていらしたのでしょうね。
余談3
正心調息法講習会で「感謝」ということに絡めて、滋賀県の山奥に住まわれているという「ありがとうおじさん」の話を良くしていました。おじさんが語ったことを中心にした「どう、生きたらいいの?」という自由価格の本を入手し、その包み込まれるような内容に感じ入り、私もまた講習会で自由価格で参加者にお分けしていました。
一度お会いしたいとも思いつつも機会もないままに過ぎ、その後噂に聞こえてくる盛り上がりの様子にちょっと違和感を持っていました。いずれはという気持ちが、様子見に変わったのは、2003年の6月だったと思いますが、致知出版から定価の付いた本が出たときです。「どう、生きたらいいの?」の包み込まれるような感じとは違って、なにか型にギュッと嵌めこまれるような窮屈感を覚えて、途中で読むのをやめました。
おじさんの言われていることは、私の理解では「ありがとうございます」という言霊を出来るだけ沢山唱えましょうということに尽きます。そして、自分の名が世に出る必要はない、ただ「ありがとうございます」という言葉が世に出ればよい」と言われているにもかかわらず、多くの人たちがおじさんに会うために山奥に集まり、場合によってはおじさんが話されているところをビデオに撮って、各地でそれを見せる会なども開いている方もおられる。懸念していたのは、おじさんの基本姿勢と、取り巻きとの間に果たしてギャップは生じていないのだろうか、ということでした。
これを書いていたのは2005年11月初めですが、この9月に講習会に参加いただいた方から、おじさんがありがとう村ツアーやお祈りの会を一切取りやめるというメッセージを出したらしいとの話を聞きました。当初はいよいよ懸念が現実になったのかと考えましたが、揉め事の内容はそういうところにはなかったようです。その内容についての真偽の程は部外者には判断がつきませんが、またまた有り勝ちな「おじさん擁護派」と「おじさん全面否定派」のこれまでの「熱狂」の裏返しとしての議論があちこちでされているようです。
ただ残念だし、いつもの繰り返しだなぁと思うことがあります。おじさんの言うことを信じて他の人に紹介してしまったという加害者意識も述べている人もおられますが、それも基本的には被害者意識の裏返しでしかないと思います。おじさんが言われたことの何処に自分の感ずるところがあったのか、何処を信じてもいいと判断したのか。そこにブレがないのなら、例えおじさんを否定する気持ちになったとしても、それがおじさんの言われたことを全部否定することは繋がらないはずです。
「ありがとうございます」という言葉に意味がなくなったわけでもありません。常に感謝の気持ちを持つ、ということが無効になったわけでもありません。そのあたりを取り違えないようにしたいものです。
※ありがとうおじさんは2018年2月末に亡くなられたようです(1月末説も有り)。