塩谷信男博士とは

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【塩谷博士Profile】
塩谷博士は1902年(明治35年)3月に、山形県上山市(当時は上ノ山町)鶴脛町で塩谷家の長男として誕生。子供の頃は病弱で、とても大人になるまで生きられないだろうと、周りからも思われていたようです。
中学校に入り、病気がちの博士を心配した教頭先生から「健康になりたいなら」と二木式腹式呼吸を奨められました。健康になりたい一心で、毎日最低でも1時間ほど続けていたら、大学を卒業する頃には人並みの健康は手に入れることができました。その当時はいろいろな呼吸法や健康法が創始されており、そのうちのいくつかを研究されながら、自分に合ったやり方を創り上げていきました。

東大の医学部を卒業後は、京城帝国大学医学部助手、助教授、東大物療内科を経て、1931年(昭和6年)5月に東京・渋谷の美竹町で内科医を開業。当時から手当療法の有効性を感じておられて、「生命線療法研究所」という看板も掲げて、手当療法も加えた治療を行いました。 当時は銀行も含めた倒産が相次ぎ、失業率30%と言われる時代。しかも健康保険制度もまだないので、ちょっと風邪をひいたくらいでは誰も医者に来ない。とくに内科医は閑古鳥という状況だったのですが、博士の病院はしばらくしたら大繁盛。当時の羽振りの良い医者でも車夫を雇って人力車で移動するくらいでしたが、開業2年足らずのうちに博士は当時珍しい自動車を購入し運転手を雇い、隅田川を越えて往診するくらいになったそうです。
渋谷の医院は1945年(昭和20年)に空襲で焼失。招集を受けるも、まもなく終戦。終戦後に世田谷にて再び開院。1986年(昭和61年)に閉院されるまで、60年近く医業に携われました。

現在の正心調息法の原型というものは、諸説あるのですが、はかせ60歳の頃には完成していたようです。ですが、それを公にすることはなく、自分だけで実践されてきました。91歳の誕生日を迎えたとき、突然この呼吸法をこのまま墓場に持って行ってはいけない、との強い思いに駆られ、以降講演活動、著作活動を始められることになります。
当時、博士が指摘されていたのは、いろんな方がいろんな健康法とか呼吸法を創始されたけれど、その創始者自身があまり長生きではないということ。分かる範囲では心身統一法の中村天風氏は92歳まで生きておられましたが、その他の方は意外と短命だったりします。

博士が言われるには、100歳は長寿ではなく「常寿」であり、100歳を超えて初めて長寿であると。自分が提唱する正心調息法の有効性を証明するため、まずは自らが100歳まで生きてみせると宣言されました。
そして2002年3月24日に見事に100歳のお誕生日を迎えました。この年は桜の開花がかなり早く、誕生日には博士の100歳を祝うがごとく満開でした。

月が明けた4月6日には中野サンプラザで「100歳記念講演会」を開催。定員2200名余の会場でしたが、2週間ほど前にはチケットも完売。大変盛大な講演会になりました。

その後もお元気で過ごされていたのですが、その年の夏の終わり頃、とのことですが、軽い脳梗塞と左大腿骨骨折で入院。その半年後には元気にリハビリに務めておられるという良い話も伝わってきたのですが、快方には向かわず、寝たきりの生活が続き、2008年3月14日に106歳マイナス10日の生涯を終えられました

博士を語る上で欠かせないのはゴルフとの関わりです。

1936年(昭和11年)に始められて、100歳になられた2002年まで続けられたとのことですから76年もの間楽しまれたことになります。博士の話を聞いていると、ゴルフというスポーツに出会ったことを本当に喜ばれているのが伝わってきました。
公式なハンディが1桁になったプレイヤー(つまりは上手な人ですが)をシングルプレーヤーと呼びます。博士は60歳の時の時のハンディは13。一念発起してそれを目指し、とうとう65歳の時にハンディ9となりシングルプレーヤーに名を連ねました。しかも翌年にはハンディ8となる快挙。65歳でシングルになるというのも珍しかったようですが、たった1年で8になるというのは日本記録ではないかと、当時は言われたそうです。さらには、92歳になられてから年齢にふさわしいスイングを完成しようとフォーム改善に走ったというのですから恐れ入るしかありません。年齢などものともせぬ真摯な姿勢に脱帽です。

3回目のエージシュート達成記念樹前で
エージシュート3回の成績

熱海転居後のホームグラウンドは三島スプリングスカントリークラブ。3回目のエージシュート達成記念の記念樹と、3回達成時のスコアを書いた記念の看板が有ります。

それからもう一つの輝かしい記録はエージシュート。87歳の時に83打、92歳の時に92打、94歳の時に94打と3回達成しています。94歳でのエージシュートは、当時は世界記録ではないかと噂されていました。

ただし博士のご長男のブログ等を読んでみると、周囲からの期待も有り、博士ご自身も100歳でのエージシュート達成を目指して頑張りすぎたことが、身体をこわす要因になったという面も有ったようです。 私自身もその期待を博士に伝えたことも有りますし、博士も達成したいと言われてはいました。私も含め、博士の著書を読んだり講演を聞いた人たちは、どうしても博士を「超人」に思い込みがちです。この辺りは正心調息法を実践されている方たちも心しておかなければいけませんね。

エージシュート(Age Shoot)

ゴルフで1ラウンドを自分の年齢以下のスコアでプレーすることをそう呼びます。一般的には1ラウンド72打のコースが多いですが、男子プロの世界でも60打以下のスコアは極めて稀。国内での最少スコアは石川遼選手が2010年に出した58打、世界ではライン・ギブソン選手が2012年に出した55打だそうです。ですから石川遼選手でも60歳近くにならなければエージシュートの達成は難しい。ましてその年齢まで体力と技術を維持できるのかどうか。そう考えると博士の記録は価値のあるものと言えるでしょう。

ただスコア以外にどういう条件が整えばエージシュートと認定されるかと言うと、確定したものはないようです。コースの長さの条件も男性は6000ヤード以上というのはどの記事も同じですが、女性については5000ヤード、5200ヤード、5400ヤードと一定していません。また年齢についても、満年齢が基準とは限らず、数え年でも認めるところも有るようです。

アマチュアでの最高齢記録は、1972年にカナダのArthur Thompson氏が103歳の時に出した98打。最多回数はEdison Smith氏が68~95歳(2011年)の間に達成した3359回。日本では上杉乾蔵氏の1472回が最多で、2019年1月現在では記録更新中とのことですが、以降の話はネットでは出てこないようです。

興味のある方は下記もご参照ください。

参考:ゴルフ豆辞典~エージシュートの記録