ページ内リンク:博士晩年の様子
■1902年(M35)3月24日山形県上の山町(現上山市)鶴脛町に
て、塩谷家長男として誕生、子供の頃は虚弱体質で、病気のデ
パートのよう。周りからも永くは持つまいと思われていた。
■年は不明だが、父親の仕事の関係で、新潟県の新井で小学校
に入学、その後、父の実家のある宮城県丹田村の尋常小学校
に転校。
■1914年(T3)、12歳の時、丹田村の尋常小学校を卒業。同県
村田村の高等科に入学。
西暦 | 元号 | 年齢 | 出 来 事 |
1915 | T4 | 13 | ■宮城県白石中学に入学。ボートを楽しむ →その後、父親の勤務先の都合で、秋田県本荘中学に転校 |
1916 | T5 | 14 | ■病弱を見かねた本荘中学の矢口新六教頭から、 二木式呼吸法を紹介され実践 |
1919 | T8 | 17 | ■飛び級で仙台の旧制二高に入学。休日にはボートを楽しむ ■高校1年の時に、正心調息法の原型となる呼吸法を完成 ■東京・品川の高輪に有った藤田式息心調和道の「養育会」という 寄宿舎に入り、ここで手当療法に出会う。 |
1922 (推測) | T11 | 20 | ■東京帝国大学医学部に入学。ボート部に入り、ボートを楽しむ。 ■徴兵検査で、当時の軍国国家の青年としては不名誉な「第二乙種」 の判定を受ける。 |
1923 (推測) | T12 | 21 | ■夏休みの夏季労働で釧路の牧場に。 →乗馬を楽しむも、この時の落馬が後年腰痛で苦しむ元となる →その牧場主の娘さんとの初恋も体験 |
1926 | T15 (S1) | 24 | ■東京帝国大学医学部を卒業、京城帝国大学医学部助手として赴任。 同年末「大正」から「昭和」に改元。 |
1928 | S3 | 26 | ■京城帝国大学医学部助教授となる。 |
1929 | S4 | 27 | ■医学博士の学位を受ける。同年、同僚の妹と見合い結婚。 |
1930 | S5 | 28 | ■5月、京城帝国大学医学部助教授を退任し、 物理療法勉強のため東京帝国大学物療内科に入局。 |
1931 | S6 | 29 | ■医局内で当直の時に患者に手当療法を使ったことで、 真鍋嘉一郎教授より破門を言い渡される ■東京帝国大学物療内科を辞し、5月5日に東京・渋谷の美竹町で内 科医を開業、「生命線療法研究所」の名も掲げ、手当療法も加えて 診療に当たる。 ■この夏、熊本の生き神様・松下松蔵翁を訪問。 |
1932 | S7 | 30 | ■生涯のスポーツとなるゴルフを始める。 ※1936年(S11)説も有り ■政友会で絶大な権力を揮っていた幹事長で、当時死亡率100%で あった奔馬性結核で重症となった森恪の主治医となる。 ■夏には松下翁からの要望により、熊本を再訪。 |
1941 | S16 | 39 | ■学士会館にて開業10周年祝賀会を開催。来賓として真鍋嘉一郎 教授と二木式呼吸法の創始者・二木氏が列席 |
1945 | S20 | 43 | ■5月、空襲で医院を焼失。招集を受けるも、まもなく終戦となる。 ■終戦後、世田谷にて医院を再開。 |
1947 | S22 | 45 | ■物理霊媒による心霊現象の研究を開始。 |
1955 | S30 | 53 | ■心霊研究を止め、医業に専念。 |
1962 | S37 | 60 | ■この頃、正心調息法を完成。 |
1967 | S42 | 65 | ■65歳にしてゴルフのシングルプレーヤーとなる(ハンディ9)。 |
1968 | S43 | 66 | ■ゴルフのハンディが8となる。わずか1年でのハンディ9→8への アップは当時の世界記録ではとも言われた。 |
1972 | S47 | 70 | ■夏に夫婦でアフリカのサファリに参加、ケニア、ウガンダ、タンザ ニア三国を巡る。 |
1977 | S52 | 75 | ■ヒマラヤトレッキングに参加。周囲の心配をよそに、一人だけ 高山病に罹らず。 |
1979 | S54 | 77 | ■8月、夫婦でユングフラウ、マッターホルン、モンブランの アルプス三山を回る。 |
1984 | S59 | 82 | ■7月1日、サンケイスポーツに博士の紹介記事掲載 「怪物ドクターここにあり! ~ 82歳で軽く200ヤード」 ■6月10日&17日開催の相模カンツリー倶楽部のキャプテン杯で 準優勝。 |
1986 | S61 | 84 | ■医院を閉じ、奥様と熱海のマンションに移住。 |
1990 | H2 | 88 | ■誕生日前、まだ87歳の2月10日、初のエージシュート達成 →スコア83 (アウト43/イン40) |
1992 | H4 | 90 | ■80代半ば過ぎから症状が出ていた前立腺肥大が重症化。 これを自らの呼吸法で治す。 これを期に正心調息法と命名。 ■さらに白内障の診断を受けたが、これも正心調息法で治癒。 |
1993 | H5 | 91 | ■正心調息法について初講演。以降、著作活動、講演活動を開始 ■初の著書となる「健康長寿と安楽詩」を刊行 |
1994 | H6 | 92 | ■5月25日、スコア92で二度目のエージシュート達成 (アウト49/イン43) ■7月、2冊目の著書「宇宙無限力の活用」刊行 ■12月、初期三部作の締めとなる「地球の破滅を救う」刊行 →この著書の中で初めて「大断言」を提唱 |
1996 | H8 | 94 | ■4月26日、スコア94で三度目のエージシュート達成 (アウト46/イン48) ■9月29日、東京・新宿紀伊国屋ホールで講演会開催 ■10月、構造地質学理学博士・藤原肇氏との対談を収めた 「想念力の驚異」刊行 ■12月、9月29日の講演内容に加筆訂正して「大断言」を刊行 |
1997 | H9 | 95 | ■2月、「大健康力」刊行 ■4月27日(土)、東京・東商ホールにて講演会 ■5月17日(土)、大阪・門真ルミエールホールにて講演会 ■6月16日(月)、ABCラジオ「安部憲幸のアベ9ジラ」に出演 ■6月26日(木)、フジテレビ「めざましテレビ」に出演 ■8月7日発売の「婦人公論九月号」に、 作家・桐島洋子との対談記事掲載 ■9月15日(月祝)、波動インストラクター東京地区会主催で 日本教育会館一ツ橋ホールにて敬老の日特別講演会開催 →「イキイキ95才、世紀末を語る~塩谷式正心調息法と 大断言」 ■11月16日、清話会主催で東京・新丸ビル大会議室にて講演会 開催 |
1998 | H10 | 96 | ■1月20日、兵庫県・神戸ポートピアホテルにて講演 ■1月27日、東京・中央大学にて講演 ■3月24日、ゴルフダイジェスト社の主催で96歳記念のゴルフの 催し開催。箱根宮ノ下の富士屋ホテルで祝賀の小宴。 ■5月20日、大阪・天王寺の都ホテル新館「吉野乃間」にて講演会 (いのちの会主催) ■6月28日、熊本・ニュースカイホテルにて講演カ (わくわくフォーラム主催) ■この頃、新潟在住の塩谷信一郎氏が 「正心調息法と大断言」HP開設 ■7月26日(日)、福岡・中央市民センター大ホールにて講演会 (㈱IHM九州支店主催) ■7月、「自在力」刊行 ■8月22日(土)、愛知県刈谷市産業振興センターにて講演 (㈱みどり経営システム主催) ■9月15日(火祝)、東京・ヤマハホールにて敬老の日特別講演会 (㈱IHM主催) ■9月、「宇宙無限力の活用」文庫本刊行 ■11月14日(土)、大阪・天王寺都ホテル新館 「吉野乃間」 にて講演 (いのちの会主催) |
1999 | H11 | 97 | ■3月7日(日)、筑波大学名誉教授・村上和雄氏が実習会に参加 ■3月14日(日)、東京・東条会館にて講演 (トータルヘルスデザイン主催) ■5月22日(土)、東京・江戸川区総合区民センター大ホールにて 講演会「真に幸福になる方法」開催(真和界主催) ■7月24~25日、「びわ湖祭」て講演。25日早朝、琵琶湖に向け 大断言唱和 ■9月15日(水祝)、東京・よみうりホールにて 敬老の日特別講演会(㈱IHM主催) ■10月1日(金)、大阪・メルパルクホールにて講演会 (いのちの会主催) →「すべての人々のしあわせを願って~ 真に幸福になる方法 」 ■11月3日(水祝)、第1回塩谷信男杯ゴルフコンペ開催 →会場:三島スプリングスCC(参加40名) |
2000 | H12 | 98 | ■3月24日、 博士の誕生日に合わせ、 第2回塩谷信男杯ゴルフコンペ開催 (会場:三島スプリングスCC ) ■7月1日、ミキレインボーサークル主催で京都にて講演 ■8月19日、熊本・県立劇場コンサートホールで講演 →「日の宮幣立神宮大祭~五色神祭奉納シンポジウム」 →中丸薫女史、村上和雄博士、美内すずえ女子等も講演 ■8月20日、蘇陽町・幣立神宮神楽殿にて五色神祭奉納講演 ■9月15日(金祝)、東京・よみうりホールにて 敬老の日特別講演会(㈱IHM主催) ■10月1日(日)、 大阪・メルパルクホールにて講演会 (いのちの会主催) ■10月、「自在力2」刊行 ■11月19日(日)、東京・大手町サンケイプラザにて講演 (日本綜合医学会・一般公開講座) ■12月17日(日)、日本青年館大ホールにて講演 (サトルエネルギー学会/21世紀シンポジウム) |
2001 | H13 | 99 | ■5月16日(水)、 第3回塩谷信男杯ゴルフコンペ開催 (会場:三島スプリングスCC) ■9月2日、蓬莱旅館内「VILLA DEL SOL」にて 有志10数名で「正心調息法勉強会in熱海」開催 →継続開催の承諾をいただくもその後は開催できず ■9月15日、東京・江戸川区総合区民センター大ホールにて 敬老の日特別講演会 |
2002 | H14 | 100 | ■3月16日付日経新聞夕刊で博士の紹介記事掲載 /「100歳ゴルファー意気軒高」 ■3月24日(日)、この時期としては異例の桜満開に囲まれて 100歳を迎える ■同日の朝日新聞朝刊にて博士の紹介記事掲載 →「100歳を祝う、ゴルフの最高齢エージシューター」 ■3月31日(日)、フジTV「スーパーニュース」で 100歳の博士を紹介 ■同月、「幸福論」刊行 ■4月6日(土)、中野サンプラザにて百歳記念講演会開催 →ゲストスピーカー多数、そして2,200人満席の祝福を受ける ■同月、「100歳だからこそ、伝えたいこと」刊行 ■5月18日(土)、NHK「百歳バンザイ」にて博士を紹介 ■夏の終わり頃(8月末?)、脳梗塞と左大腿骨骨折で倒れられ入院 ■12月、「不老力」刊行 |
2003 | H15 | 101 | ■3月の101歳の誕生日過ぎ、元気にリハビリに励んでおられる 様子が伝わるが、残念ながら、以降それ以上の回復には向かわず ■3月、上智大名誉教授・渡辺昇一氏との対談本 「人間百歳自由自在」刊行 |
2004 | H16 | 102 | ■4月、「自在力」文庫本刊行 ■5月にお見舞いに行かれた方が「先生は正心調息法の創始者なん ですから、頑張ってくださいね」と問い掛けると、博士から 「僕も頑張るから、皆に正心調息法を実践するように」との メッセージが有ったことが伝わる |
2006 | H18 | 104 | ■11月初旬、奥様が99歳10ヵ月の生涯を閉じられる。その報に接 した博士が「嘘だ!!」と大声を上げられたとの話を漏れ伝え聞く |
2008 | H20 | 105 | ■3月14日(金)22時頃、博士が106歳マイナス10日の天寿を 全うされる |
2009 | H21 | — | ■4月、「自在力」ポケットブックシリーズ(新書版)刊行 |
2020 | R2 | — | ■コロナ禍のため、春に「大健康力」復刊 ■同様の事情で秋に「自在力」文庫本も復刊 |
※1922年と1923年については、博士の年表と自伝等からの推定。
※講演会等については手持ちの資料で分かる範囲のものを掲載。とくに講演会についてはもっと多くされています。
博士晩年の様子
年表としては上記で全てですが、100歳の夏に倒れられた以降、なかなか情報が届かない中で漏れ聞こえてきたことを、年表下に適宜発信していました。公式サイトリニューアルの際には削除も考えましたが、これもいちおう参考情報として残しておくことにしました。
【2003年(H15)3月の状況/博士101歳】
年表にも軽く触れていますが、倒れられてから半年後、101歳の誕生日には良い話が伝わってきました。
その1か月前には車椅子を操作できなかったのに、お誕生日には自分で操作できるようになっている。しかも車輪を回しての移動が面映ゆいようで、手摺りを引っ張って移動している。なんとなく車輪を回す方が早そうな気もしますが、となれば握力とか腕力がかなり回復していることになります。またリハビリで2本の棒の間を歩きますが、1日に何往復もされているとのこと。
この話を聞いて仲間内では「101歳がリハビリやってるぞ」と大喜びしてました。ですがこれ以降は明確な回復の方向には向かわずに、寝たきりの生活が続きました。
【2006年(H18)7月の状況/博士104歳】
正心調息法が有効であることの生き証人になるため100歳まで生きてみせると断言された塩谷博士。年表にもある通り、100歳記念の講演会をされた後の夏、病床に倒れられました。
その後は、博士のご家族も博士の基本的なお役目は終えられたという判断と思われますが、近親者やごく近しい人以外には面会させないようにおられるようです。したがってたまに断片的な情報が伝わってくるくらいなのが現状です。
お身体は元気なようですが、現在も車椅子の生活。お部屋には神棚が有って、お見舞いされた方がその榊を変えたりすると、にこやかに「ありがとう」と言葉を掛けられるそうです。残念ながら博士の講演とか直接教えていただくとかは、もう無理な状況になっています。
「正心調息法と大断言」HPの掲示板に、以前「博士のご本復をお祈りします」という嬉しい書き込みが有りました。しかしながら、博士には100歳までは生きて見せるという公約はしっかり果たしていただきました。誰にでも寿命が有ります。我々としてすべきことは「博士が天寿を全うされますように」と祈ることなのではないでしょうか。そうすることが、博士が「自分はエブリワンの先駆けに過ぎない」という私たちに残していただいた言葉に合致していることだと考えています。
【2007年(H19)11月の状況/博士105歳】
今年9月12日に博士のご長男・塩谷信幸先生に面会させていただきました。
博士は今でも経口で食事を摂られていて食事を摂られていて、体力的にはお元気でおられるようです。ただ頭の方はスッキリしている時とそうでない時が有り、ご長男のことも認識されないことも有るようです。認識している時は、口調がぞんざいになるのでわかるとのこと。
また博士を良く見舞われているFさんに聞きますと、食事を口から摂られているとはいうものの、自前であることがご自慢であった歯も、今はもうだいぶ抜けてしまい1、2本残っているだけとのこと。
施設の壁には入所者の気持ちが一言づつ張り出されているそうです。博士の場合はもちろん代筆になりますが「○○さんを愛しています」と書かれていたそうで、これは一体誰のことだろうと言われていました。お母様の名前に近いようですが、代筆された方に聞くと確かに「○○さん」と言われたそうです。博士も若い頃はそうとうもてた方だそうなので、もしかして「秘められた恋」なんてのが有ったのかもしれません。
【2008年(H20)3月14日(金)】 106歳マイナス10日の天寿全う
ご長男である塩谷信幸先生のブログによると、呼吸困難となり2月7日に入院。肺炎も併発されたものの、その後回復され、退院後の住処をご家族が探されている状況でした。しかしながら容体が急変、3月14日22時頃、息を引き取られました。106歳に10日届かなかったご生涯でしたが、断言された100歳を6年近くも越えた大往生、天寿を全うされました。ご冥福をお祈りします。